2009年12月17日

考証学

考証学(こうしょうがく)とは、中国において、清代に入って流行した学問であり、諸事の根拠を明示して論証する学問的態度のことを、こう呼んでいる。
宋学よりモンゴル・元を経て、明学に至る学問は、自分自身の見解に基づいて経書を解釈する、「性理」の学として発達した。(「宋明理学」)
それに対して、経学・史学を研究し、その拠り所を古典に求めたのが、考証学の起こりである。 また、漢学あるいは樸学(ぼくがく)とも呼ぶ。
明末清初の時期の黄宗羲や顧炎武が、考証学の先駆的存在である。黄宗羲の方は、歴史や暦学の方面に精通しており、顧炎武は、経学・史学や文字学に秀で、厳格な考証を行った。

以後、経学・史学の研究が隆盛となった。また、康熙・雍正・乾隆三代の学問奨励策とあい符合して、考証学は乾隆・嘉慶年間(1736年 - 1820年)に全盛となった。このため乾嘉の学(けんかのがく)・乾嘉学派の名がある。

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代表的な考証学者としては、閻若璩・恵棟・銭大昕・戴震・段玉裁・王念孫・王引之らが挙げられる。その中で、恵棟の系統を呉派、戴震の系統を皖派と呼び、考証学の二大潮流となった。呉派は蘇州を中心とするグループで恵棟により始められ、銭大昕によって大成された。一方、皖派は戴震の師である安徽省出身の江永によって始められ、戴震・段玉裁・王念孫・王引之によって発展された。このため皖派の主流をとくに戴段二王の学と呼ぶ。

また呉派・皖派の浙西学派が顧炎武を始祖として音韻学・訓古学・金石学といった言語学的研究や礼学を重視するのに対し、歴史学を重視する黄宗羲を始祖とする浙東学派があり、万斯大・万斯同・全祖望・章学誠・邵晋涵らがいる。章学誠は六経皆史(りっけいかいし)の説を唱え、経書研究に史学的視点をもたらした。

2009年12月01日

ゴボウが関連する言葉

ごぼう抜き - リレー走や駅伝競走などで、後方からほかの選手を一気に抜き去ること、または、多数抜き去ることをごぼう抜きと言うことがある。『広辞苑』(第5版)には、「(牛蒡を土中から引き抜くように)一気に抜きあげること。」とあるが、これは厳密には間違いである。というのも、ゴボウはそれ自体が長く、根毛も多い。すなわち、土との接触面積が大きく摩擦も大きいため、するっと抜くことができないからである。事実、農家では、ゴボウは「抜く」ものでなく、「掘る」ものと認識されている。この言葉はむしろ、抜きにくいゴボウを一気に抜くことができるほどの力を持っている、という意味で用いるほうが正確であろう。ゴボウの太い根は一株に一本なので、多数抜き去ることの比喩に用いるのは誤用といえる。
なお、「ごぼう抜き」という言葉には、座り込みなどを行う人物を力ずくで排除するという、原義に近い用法もある。
ごんぼ(牛蒡)堀り - 青森県の方言に「ごんぼほり」(牛蒡堀り)というのがある。ぐずぐず不平を言って譲らない、酔ってくだを巻く(時に居座る)、強情である、ふてくされる(特に子供)、といった態度(あるいはそのような態度の者)ぐらいの意。なだめたり、お引き取り願うことはゴボウを「掘る」ことと同じくらい難儀であることから、であろうか。秋田県にも同様の言い回しがあり、秋田のローカルヒーローである「超神ネイガー」には「ゴンボホリー」という悪役が登場する。
太平洋でごぼうを洗う - 男女の性交において、女性の膣の締め付けがゆるいと同時に、男性の陰茎が細いため、男女とも十分な満足感が得られないたとえ。
牛蒡剣 - 三十年式銃剣の俗称。
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ゴボウにまつわる食文化の違いがもたらした悲劇的な逸話として、「戦時中、外国人捕虜にゴボウを与えたところ、木の根を食べさせられたと誤解され、戦後にBC級戦犯として虐待の罪で処罰された」というものがある。小中学校でよく読まれるはだしのゲンでも言及されているため(はだしのゲンではヤマゴボウと記述されている)、この逸話は小中学生の間でも比較的知られている。

2009年11月27日

第1部は資本の生産過程の研究である

第1部は資本の生産過程の研究である。 巨大な資本主義社会の諸現象の内、最も単純な概念である商品の分析から出発する。商品経済は必然的に貨幣を生み、マルクスは第1部冒頭で、「資本」という概念が登場する以前の「商品経済」すなわち市場経済の研究を行っている(資本主義より時間的に前に存在した市場経済という意味ではなく、論理的前提として存在している市場経済という意味)。

機械などの生産手段や貨幣はそのまま資本になるのではなく、ある歴史的条件の下で「資本」に転化することを明らかにする。その決定的な条件が、生産手段のブルジョアジー(資本家階級=生産手段の所有者)の独占と、身分としても所有からも自由となった(排除された)プロレタリア(労働力商品)の存在であった。(マルクスの経済学はリカードなどが唱える労働価値説に立脚し、価値とは労働者の労働時間であるという前提から出発していた)。こうして「自己増殖する価値の運動体」である資本の概念が登場する。資本はいつの時代にも存在するものではなく、歴史的な存在であるとマルクスは本書で主張している。
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資本(その人格化としての資本家)は、労働力商品を購買し、労働者には労働力商品の再生産費分(労働力価値)だけを「労賃」として等価交換し、資本はその労働力価値分を超えて価値を生み出させるように働かせる。この超えた部分が「剰余価値」となり、資本がこれを取得する。等価交換という商品経済の原則を守りながら、生産過程の中で新たな価値を生み出す??これがマルクスが明らかにした搾取(労働力が生み出した価値?不当に低く抑えられた労賃=剰余価値) のシステムである。

資本は「食べるため」「着るため」といった有用目的のために生産を行うのではなく、剰余価値(対象化された不払労働)の追求、すなわち「もうけ」のために生産を行う。したがって、例えばいくら飢餓が生じ、食糧の生産が必要であっても、もうけが生じなければ資本は生産はしない。逆に兵器など社会にとって有害なものでも、もうけが出れば資本は生産する。

2009年11月13日

貴族院 (イギリス)

貴族院(きぞくいん)は、イギリス議会を構成する議院で、上院に相当する。

庶民院 と共に両院制を構成している。

議会制民主主義の発展とともに公選制の庶民院に政治の実権が移り「貴族院」は名目的存在となった。1911年には議会法で下院(庶民院)の優越が定められ、法案の最終的な決議権などは完全に下院に移った。しかし現在もその審議水準の高さで尊敬を集め、下院に再考を促す議院としての存在価値は高いと言われている。

イギリスの貴族院は今日でも全議員が何らかの形で爵位を持つ貴族で構成されており、無爵でも多額納税者や勅撰議員が少なからず名を連ねていた日本のかつての貴族院とは様相が異なる。
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議会制の長い歴史をもつ英国では、古くウィリアム1世の時代から、国王の諮問機関として、大貴族によって構成される大会議(キュリア・レジス)が存在していた。そして次第に小貴族、市民代表が参加するようになり、後に世襲制の貴族階級によって構成される貴族院と、市民代表からなる庶民院の二院制が成立した。

英国の貴族院議員は歳費を受領しない。貴族であることを前提として、その特権の一部として議会に招集されていることが、歳費が支給されない理由とされる。ただし下記法服貴族を除く。

2009年11月02日

食品事故の恐ろしさ

食品は口から入り、食道・胃・十二指腸を通り小腸・大腸で消化吸収されるので、毒物や微生物など危険なものが入っていると、人体にその影響は直接に出てくる。 急性のものであれば、一部は、口に入れた時に即時吐き出したり、嘔吐や下痢となって吐き出されることもある。細菌性の食中毒では潜伏期間があり、数時間から数日後に発症する。だが、慢性のものでは徐々に身体に影響(健康被害)が出てくることがある。 また、食品事故で命を落とすこともある。

食品事故のタイプとしては以下のような分類がされることがある。
江戸の歴史
お茶の発祥
ことわざ集
葬祭マナー
日本の音楽
雨模様
フルーツ王国
広島の歴史
南北朝時代
長寿祝い
アロマ広場
楽しいかたかな
酒に飲まれて
フェスティバル
ボディビルディング
婦人科
経営工学
花火
過敏性腸症候群
四国

公害に含まれる化学物質による食中毒事故 (日本では水俣病や第二水俣病などがこれに当たる)
食品メーカーの製造工程上で混入した化学物質による食中毒事故 (中国製冷凍食品による農薬中毒事件など。日本の食品メーカーの事故では森永ヒ素ミルク事件やカネミ油症事件がこれに該当)
最近の細菌性食中毒菌による食中毒事故 (日本では1996年に岡山や堺で起きたO157事件や雪印乳業の集団食中毒事件が該当)
故意などの犯罪的要素の食中毒事故 (和歌山毒物カレー事件などが該当) 。

2009年10月23日

廃線

廃線(はいせん)とは、鉄道路線などの営業を廃止すること。またはその廃止された路線のこと。

ある鉄道路線が廃線になる要因として、以下のようなものが挙げられる。

この要因が廃線の原因としては最も多い。日本では国鉄 (JR) や、その他の鉄道会社が自主的に廃止を決定したもののほか、1968年から行われた赤字83線に指定されたもの、1980年代に行われた国鉄再建法に基づく特定地方交通線に指定されたものなどがある(ただし特定地方交通線の中には、勝田線や清水港線のように沿線人口自体は多く、適切なダイヤ設定がなされてさえいれば存続できたと見なされている路線も存在した)。太平洋戦争中に「不要不急線」として休止されレールなどの資材を供出し、戦後鉄道路線として復活されないまま廃止となった路線(例・白棚線や愛宕山鉄道、京福電気鉄道三国芦原線三国 - 東尋坊口間、観光が主目的のケーブルカー)もある。
四国
スキンケア
花見
トリックアート
少子化
茶道
映画祭
陶芸
月経
生化学
ソフトボール
影絵
肥満
大気化学
体操
ベリーダンス
アルバイト
オリエンテーリング
遺伝子疾患
心療内科

旅客・貨物の減少の要因としては、1960年代まではバスやトラックの発達が主要因であったが、それ以降は自家用車の普及(モータリゼーション)が主要因となっている。仙北鉄道の場合、営業末期には旅客、貨物ともに最盛期より減少していたが、赤字を出すほどではなかった。

2009年06月22日

生態学は野外における生物を扱う部分も多く

英語の"ecology"は、1866年にドイツのダーウィン主義生物学者エルンスト・ヘッケルにより作られた。ギリシア語のoikos(=家)とlogos(=科学)とを組み合わせたものである。

生態学は野外における生物を扱う部分も多く、その点でいわゆる博物学が生態学の大きな源流となっている。多くの動物種に興味のあったアリストテレスは、人類最初の生態学者とみなすことができる。彼の後にはビュフォンやリンネなど数多くのナチュラリストが続き、現代の生態学の始祖と目されている。

18世紀から19世紀初頭にかけて、フランスやドイツといった大きな海事力をもつ国々は、他国との海洋商業確立、新しい自然資源の発見と目録作成を目的に、多くの遠征に出帆した。18世紀初頭に知られていた植物種はおよそ2,000種であったが、19世紀初頭になるとその数は4,000種に増え、現在では400,000種に達している。
更年期障害
映画音楽
アルツハイマー病
オリエンテーリング
関節炎
人間工学
甲状腺疾患
環境工学
タップダンス
機械工学
原始時代
いざ・鎌倉時代
世界の建築
季節のこよみ
月の物語
湯・山梨
外国の物語
果実で美!
オレンジ活用
掃除秘伝


これらの遠征には多くの科学者が参加し、中には植物学者も含まれていた。ドイツの探検家アレクサンダー・フォン・フンボルトもその一人であり、生物-環境間の関係に初めて着目したという点から、しばしば生態学の真の父と考えられている。彼は観察された植物種と気候、緯度・経度を用いて記述された植生区分との間に関連があることを明らかにした。このような領域は、現在では植物地理学として知られている。1805年に出版された『Idea for a Plant Geography』はフンボルトの代表著作の一つとされる。

他の重要な植物学者としては、Aimé BonplandやEugenius Warmingなどがいる。

1850年ごろ、チャールズ・ダーウィンの「種の起源」出版に伴う革新が起こった。また、ダーウィンは生物個体間や種間、環境との関係を重視して、その仕組みに基づいて進化論を主張したが、その内容は生態学的と言って良いものである。

生態学は、反復のある機械的なモデルを、生物学的・有機的な、そしてそれゆえに進化的なモデルへと受け渡した。

同じ時代にダーウィンの競合者であったアルフレッド・ラッセル・ウォレスは、初めて動物種の"地理"について提案をした。当時の何人かの科学者は、種は互いに独立したものではないということを認識し、生物を植物、動物、後には生物群集に分類した。この生物群集(biocenose)という語は、1877年にカール・メビウスによって作られたものである。

2009年06月04日

天安門広場

天安門広場(てんあんもんひろば)は中華人民共和国北京市の天安門に隣接する広場。

明の成祖永楽帝が北京遷都した時期には天安門から南下し「大明門」(清朝では「大清門」、辛亥革命後に「中華門」と改名)に至る「千歩廊」と称される大通りと、現在の長安路に存在した「長安左門」と「長安右門」の間を結んだ丁字形の空間が存在し、天安門広場の原形が既に存在していた。

1954年に「千歩廊」の左右の官庁と倉庫群を撤去、中華門と長安左右門を撤去して現在の天安門広場が形成され、天安門広場建築に併せ人民英雄紀念碑も建設されている。また1976年に毛沢東が死去すると、翌年にかけて広場の南の中華門跡地付近に毛主席紀念堂が建設された。

天安門広場は最大で50万人を収容でき、国家行事や歴史上の大事件の舞台となってきた。そのため幾度となく革命運動の舞台にもなり抗争が起こってきた。

南北880m、東西500mの世界最大の広場。敷石は花崗岩である。北は北京随一の大通りである長安路が位置し、その反対側に紫禁城(故宮)の入口である天安門が位置する。広場の中は、北から人民英雄紀念碑、毛主席紀念堂、正陽門(前門)が設けられ、広場の西側には人民大会堂(全国人民代表大会議事堂)、東には中国国家博物館(旧・中国歴史博物館および中国革命博物館)がある。これは太陽の昇る方角を過去、沈む方角を未来に比喩したものである。
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周囲の歩道の敷石にまじって長方形の鉄板が敷かれている部分があり、下に水を流せる架渠構造になっている。大規模な集会で際し鉄板をはずして周囲を天幕で覆い、臨時のトイレとして使用できる。

国内外の観光客であふれているが、国家のシンボル的施設であるため多数の警備兵がパトロールしており、かつて2回の天安門事件が起きた場所でもあるため、中国政府や中国共産党に批判的なデモが再発しない対策が行われている。広場の北部に国旗掲揚台があり、日の出と日の入りに合わせて毎日警備兵による国旗の掲揚収容儀式が、地方からの中国国内団体旅行客を中心に多数の見学者が見守る中実施される。また夜間は特定日を除き立ち入り禁止となる。

2009年05月01日

中山道を進む別働隊を率いる

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられ、9月10日に美濃の赤坂宿に到着する予定(福島家文書に「中納言、さだめて十日時分には其地まで参るべし」)だったが、信濃国上田城攻めで、真田昌幸の激しい抵抗に時間を奪われて9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原の戦いには参加できなかった[1]。近年の研究では、このことで軍事面に於いてその無能振りを全国に示した秀忠及び自分の死後の徳川家の将来を悲観した家康が、もともとは秀吉の遺言に従い、徳川・豊臣両家共存の意向だったのを取り止めて、後顧の憂いを絶つべく豊臣家廃絶の道を選んだのではないかとする考えが示されている。

シヤトン教育ランドサイト
ホテル・キャンプ場関連レジャー総合
ノエビアコスメチック倶楽部サーチ
介護サービス・老人ホーム関連ビジネスワールド情報
ヘルメスワインライフレシピナビ
生活習慣病・成人病関連家庭の医学・健康サーチ
フラミンゴ通販サーチ
せるびあ教育学びサイト
水族館・旅行関連リゾート総合
パークウェスト大人のコスメ情報

そのように軍事面での才能には疑問が持たれる秀忠だが、それでも後継者となったのは家康が秀忠を「守成の時代」の君主に相応しいと考えていたからだと言われている(家康は唐の太宗の治世について記した『貞観政要』を読んでおり、当然その中の「守成は創業より難し」という一文も読んでいたと思われる)。律儀に父の路線を守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言えるだろう。ただ、秀忠自身は武将として汚名が付いたことを気にしていたらしく、大坂冬の陣では家康に対して豊臣方への強攻策を主張しており、この戦いに勝利することで汚名を返上しようとしていたのではないか、とする説もある。

2009年04月17日

アーリム・ハーン

サイイド・エミール・ムハンマド・アーリム・ハーン(Emir Mohammed Alim Khan, 1880年 - 1944年)は中央アジアのブハラ・アミール国マンギト朝最後のアミール(在位:1911年1月3日?1920年8月30日)。

ブハラは1873年にロシア帝国の保護国とされたとはいえ、アミールは専制君主としてアミール国国内を統治していた。

13歳のとき、アーリム・ハーンは父王アブドュルアハト・ハーン(Abdulahad Khan)により、政治学と近代軍事技術を学ばせるために、サンクト・ペテルブルクに送られた。1896年、ロシア政府によりブハラ・アミール国の太子として正式に認められ、彼は帰国した。

ブハラにおいて父の統治を手伝った後、彼はナゼフ(Nasef)県の知事に任命され、12年間務めた。彼はその後、カルミナ(Karminah)の北部州へ転任し、彼の父が亡くなる1910年まで2年間、ここを統治した。

アーリム・ハーンの統治は、約束事をもって始められた。初め彼は、もはや如何なる贈り物も望まず、受け取らない、そして役人が国民に賄賂を要求したり、個人的に税を課すのを禁止する、と宣言した。しかしながら、アミールの態度が時の経過で変わるとともに、賄賂、税、役人の給与も変わって行った。伝統主義者と革新主義者との争いは、伝統主義者による統制、革新主義者のモスクワやカザンへの亡命という結果に終った。初めは近代化と革新主義者を支持しアーリム・ハーンも、それらの究極の目標が、支配者として彼や彼の子孫が排除されることに気が付いた、と考えられる。前王と同じで、アーリム・ハーンは伝統的支配者であった。彼はウラマーたちを押さえ込む道具として改革の考えを弄び、そしてマンギト朝支配を強固なものにするのに利用できるかどうかを見ていた。

最も重要なタジク人作家の一人、アイニー・サドリッディン(w:Aini Sadriddin)は、アミールの下での生活を活き活きと記述している。彼はタジク語を話すとして鞭を打たれ、後に著書『ブハラの死刑執行人』(Jallodon-i Bukhara)においてアミールの支配下での生活を描いている。

アーリム・ハーンは最初にして唯一、カリフを名乗ったマンギト朝の支配者であった。

1920年にボリシェビキがブハラを併合し、ブハラ人民ソビエト共和国を宣言したとき、アミールはアフガニスタンに亡命した。彼は1944年、カブールで死去した。

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